現実、脱線中。

考えすぎた時、頭の中を捨てに。悩みすぎた時、現実逃避に。

虫の呪文

冗談のように言われた言葉がずっと胸に残ってしまう、というのは誰にでもある経験だろう。

お前のガキが五体満足に生まれるなんて奇跡だ。

私にとってずっと残っている言葉の一つがこれだ。

父は精神的に脆いところがあり、常に何かに依存する生活をしていた。学生の頃は、主にシンナーに依存していたらしい。
そんな人なので、その後もアルコールや薬物が父の傍らにはあったそうだ。
最終的に父はアルコール依存症から抜け出せず、DVで離婚され、そのまま肝硬変で孤独死したので、徹頭徹尾その性質は変わらなかったらしい。
まだ幼かった私には知らされていない事情もたくさんあり、これは後から冗談めかして伝えられた内容の一部でしかない。

シンナー漬けでよくバイク事故を起こすイカれた男だと友人には面白がられていたそうだ。
孤独を紛らわせるためにぶつぶつと文句を言いながらも誘われればすぐに飲みに行ったし、そうでなくても家で酒を飲まない日はなかった。
前後不覚になるほど酔った父を、母と迎えに行った時には、「こんなやつからこんないい子が」「奇跡だ」と、体面上は褒め言葉をつらつらと投げかけられたが、悪酔いというか、どこか面白がったような軽薄さを、幼いながらに感じ取った。
母は彼らを毛嫌いしていたが、私も「こんな人と話して何が楽しいのだろう」と思ったのを覚えている。

その時、人伝に聞いたのが先ほどの言葉だ。
父の薬物依存を揶揄するのに、「お前の子供がまさか五体満足に生まれるなんて」という人がいた、と母が言っていた。
その言葉を聞いたときは、あまりのキャッチーさとインパクトに「たしかにそう」「運が良かったわ」と笑い飛ばしていたが、思い出すといまだに、その醜悪さにギョッとしてしまう。
我が子を持った身になって、より一層その軽々しさを痛感するのだ。

子を授かった時、私は心の底から嬉しかった。同時に、もしこの子に何かあったら、と思うと頭が真っ白になる程の不安もあった。
胎動の愛おしさ、感じ取れない時の恐怖、妊娠中は目まぐるしく感情が揺さぶられた。生まれた直後はなおさら、この小さな存在を守り、絶対に幸せにしなくては、という本能のような熱さが、産後の身体を突き動かしてくれた。
それだけ我が子の健康には敏感になるものなのだ。
「五体満足に生まれるとは」なんて、そんな思いで子を作り、ましてや健康に生まれ育った子を前に思うことがそれだなんて、もう、絶句である。
肝硬変で死んだ父を思うと、間接的にこいつらだって父を殺したんだ、と思ってしまう時がある。
素知らぬ顔で人の死因をつくるような人間だから、邪悪な呪文のような言葉を唱えられるのだ。
そして突然父の火葬に押しかけたり、「ついでに父の車から目ぼしい作業器具はもらってったから」なんて、抜け抜けとほざくことができるのだ。

どこにでもいる。何にでもたかる虫のような、その一瞬以外何も考えていない人間が。どこにでもいる。
私はずっと「普通の人」になりたくて、普通の人生をおくりたいと思って、頑張ってきた。
振り返ると、虫に食い尽くされないために、必死だったのだろう。
虫が私を駆り立ててくれたのだと思えば、呪いも薬になる……と、納得できるような、できないような。

映画レビュー:PLAN75

PLAN75

あらすじ引用
超高齢化問題の解決策として導入された制度・プラン75が定着しつつある日本。夫に先立たれ、一人で暮らす78歳の角谷ミチは、プラン75の申請を検討し始める。

 

感想
生きていると、寄る辺ない不安に苛まれ、解決しない問題が次々と迫りくる。どうしようもないまま、なんとかそれらをやり過ごして、とにかく生き延びるしかない。
そんな私たちが生きている社会が、同じようにこの映画の中に広がっている。
登場人物は皆、善人で、自分の仕事をこなす、ありふれた人たちばかり。
唯一異質なものが、PLAN75という、高齢者に「安楽死の権利」を与える制度だけだ。
たとえそんな制度があろうと、必死に生きようと、誰かに思いやりを傾けようと、報われないし、問題は解決しない。やりすごしたとして、また新たな問題が次々と、当然のように迫ってくる。

 

ミチは賢くしっかりした女性で、周りを気遣い、身の回りのことをきちんとする、自立した生活をおくっているが、それでも働き口を失い、話し相手もなく、孤独に晒され、「自分で自分の人生を終わらせる」選択をしはじめてしまう。
PLAN75に携わる若者たちもみな優しい。申請窓口業務をするヒロム。申込者をフォローするコールセンターの瑤子。心臓病の子供のため、フィリピンから出稼ぎし、高齢者を安楽死させる施設で働くマリア。自分の目の前の仕事をただ粛々とこなし、出会った人に疑問も持たず親切にする。実直であたたかな人たちだ。
しかし社会は「高齢者」をひとまとめにし、高齢の女性に「未来を守る」などの前向きな言葉を言わせたクリーンな広告を打ち、安楽死を選ばせるように、緩やかに社会の空気を変えていく。
そんな社会の制度の前には、思いやりなど何の力も持たない。社会から寛容されず、自らを「不要」と思ってまで、人は生きられない。それが年老いて孤独を感じている人なら尚更である。

 

それでも、死んだらもう、戻ってこない。
解決しない問題が山積みで、生きる理由も目的もない状態でも、死んでしまったら何も残らない。
生前の甘言は意味を成さず、残ったものが何をどう扱おうと、何もできない。
人はなぜ生きるのか?
答えの出ない問い、絶え間ない不安、解決しない問題の波にのまれながらも、ただ生きていくしかない。眠れない長い夜のような、静謐で深刻な、良い映画を観た。

 

前の記事でも書いたように、人はただ、「産む」と決め、多くの人の手を借りて、必死に生まれてくる。
だから、人はただ、生きると決め、多くの人の手を借りて、必死に生きていくしかない。
生産性、価値、意味、そんなものは誰かを納得させるための要素でしかなく、「生きる」という結論ありきでなければ、意味を成さない。
高齢者を寛容しない社会は、いずれは出産も寛容しなくなる。それはやがて、ただ生きることすら、許されない国をつくるだろう。
私はただ生まれ、ただ生きる者を慈しめる人間でいたい。子の寝顔を眺めながら、そんなことを考えた。

こどもを産むか、産まないか

可愛い我が子がいる。まだ幼い。
あまりにも愛おしくて、自分はこの子に出会うために生まれてきたのだとすら思う。
こんなふうに思えるだなんて、産む前は考えられなかった。
子供を持つということを、ひどく深刻に捉えていたからだ。

 

子供の話題になると、一定数湧く意見がある。
なぜ今の時代に子供を産むのか。
この先、幸福に生きられる保証などないのに。
自分は、生まれてきたくなかった。
子供を産むなど、親のエゴである。

 

この頃、多様性だとか、ジェンダーのグラデーションだとかで、今までの「結婚して子供を産みマイカーマイホームを買う」生活への反発なのか、子供を持つという選択の負の面ばかりが取り沙汰されているように感じる。
「それぞれの生き方」「それぞれの性別」を尊重するという考え方は、即ち自らの人生観や性自認を明らかにし、それをもって社会と渡り合っていかなくてはならないわけで、つまりは「自分のエゴの居場所を確保する」行動をとるわけだ。
エゴのために誰かを犠牲にしない生き方なんて出来はしないのに、こと子供となると、言葉が激しくなる人が増える。

 

それはなぜか。
「人は皆、幼少期の復讐のために青年期以降を生きる」と言った人がいるらしい。
幼少期に負った苦痛は、その人の価値観の根幹を成し、生きるのに切っても切り離せないものとなってしまう。
恐らくその「幼少期の復讐」に囚われすぎると、自他の境界が曖昧になって、見も知らぬ他人の子供でさえ「生まれることを望んでいないかもしれない」とまで言い出してしまうのだろう。

 

生まれてこなければよかった。
死んでしまいたい。
何もなかったように、シュッと消えてしまいたい。
そんなふうに思ったことは何度もあるし、いまだに親を許せない部分も、たくさんある。

 

それでも子供を産んだのは、本当に「産みたかったから」でしかないのだ。
我が子という存在に、出会ってみたかった。
母親というものになってみたかった。
未来にも、政治にも、経済的にも不安はたくさんあるけれど、今からではどうにもならないことばかりだし、できることは少しずつやっている。
あとはもう精一杯愛して、育てるだけだ。親が子にできるのはそれだけだし、どんなに考えたって、100%の正解は存在しないのだから、その時その時、必死にやっていくしかない。

 

とあるVtuberが、恋愛相談への回答でこう言っていた。
「恋愛を神格化しすぎている。そもそもは種の繁栄を助けるシステムの一部みたいなものが恋愛なわけで、何か特別な存在が特別に行うものではない。たまたま近くにいたから好きになる、単純接触なんてものもある」
子を産むのはまさにその最たるものだと、私は思う。
生まれてきた命に責任を持つとか、慈しんで育てるべきとか、そういった話とは別に、「子を産む」という行為は、ごく身近なものであって、特別な存在が特別に行うものではないのだ。
恋愛をするのも、子を産むのも、育てるのも、ただただ生活の一部分でしかない。
会社員とフリーターと自営業がなかなか分かり合えないように、事情の違う人たちが、子を持つ人たちの考えを理解するのは難しいというだけだ。

 

私も実際経験するまで、完全には理解できなかった。
子供を持つのであれば、余裕のある経済力や、並々ならぬ覚悟、完成された人格を持った特別な人間でなければ、生まれた子が不幸になってしまうのではと、不安に思うこともあった。
でも、全く違った。

子は、なんであれ、親を愛する。
自分を生かし、守ってくれるはずだと、全幅の信頼を寄せてくる。
親はとにかくそれに応え、慈しみ、思いやり、一緒に生きていければ、ちゃんと育つのだ。
赤子にはそれだけのパワーが十分にある。一生懸命、一瞬一緒を生きている。
誰と暮らすのでも同じ、できないことはできる者がして、想いを寄せ合って暮らす。とにかくそうするだけだし、逆に言えば、それ以外に親は何もできない。
お金や、人格は、揃っていればより選択肢が広がるというだけで、必須ではないのだ。

私は私のエゴでこの子を生み、特別な何かを与えられるような親ではないけれど、それでも、産んだことを微塵も後悔していない。
この子が、自分は不幸だと、消えてしまいたいと感じるがくるかもしれない。
生きていれば、そんな時はあるし、全ての憂いを払ってやることなどできない。
ただその時、この子を孤独にはしない。いつでも、声や手が届くところで、支えていく。
それが「家族」なのではないかと、この頃思い始めている。

introduction

考えなくていいことを、考えなくてもいい時に、

延々と頭の中で転がしてしまう。

そんな悪癖があります。

 

少しは貯金だってしているのに、

急に将来の生活が心配になったり。

 

定職にだってついているのに、

ちょっとしたストレスですべてが嫌になって、

なんとか、明日、働かなくていい状態をつくれないものか、

妄想しつづけたり。

 

特に誰も気に留めていないのに、

しょうもないミスをした自分に全然信用がおけなくて、

食欲も失せるほど自己嫌悪したり。

 

ニュースで見たやるせない事件について、

なんとなく自分の経験と重なる部分がある気がして、

胸のざわざわが止まらなくなったり。

 

あの時、どうしようもなく許せなかった誰かの言葉とか。

あの時、咄嗟になにも言えなかった自分の情けなさとか。

あの時、理解できなかった肉親の真意とか。

 

今更どうにもならないこと、

今からじゃ手の届かないくらい先のこと、

突然考えはじめて、止まらなくなってしまう。

 

そんなことを書いて、頭から放り出して、

思考を本筋に戻せるようにブログをつくりました。

 

余計なことを考えないように、本を読んだり映画を見たりもするので、

そういったもののレビューなんかも書くつもりです。

 

頭の中が脱線したときだけここに書きにきます。

よろしくお願いします。