現実、脱線中。

考えすぎた時、頭の中を捨てに。悩みすぎた時、現実逃避に。

こどもを産むか、産まないか

可愛い我が子がいる。まだ幼い。
あまりにも愛おしくて、自分はこの子に出会うために生まれてきたのだとすら思う。
こんなふうに思えるだなんて、産む前は考えられなかった。
子供を持つということを、ひどく深刻に捉えていたからだ。

 

子供の話題になると、一定数湧く意見がある。
なぜ今の時代に子供を産むのか。
この先、幸福に生きられる保証などないのに。
自分は、生まれてきたくなかった。
子供を産むなど、親のエゴである。

 

この頃、多様性だとか、ジェンダーのグラデーションだとかで、今までの「結婚して子供を産みマイカーマイホームを買う」生活への反発なのか、子供を持つという選択の負の面ばかりが取り沙汰されているように感じる。
「それぞれの生き方」「それぞれの性別」を尊重するという考え方は、即ち自らの人生観や性自認を明らかにし、それをもって社会と渡り合っていかなくてはならないわけで、つまりは「自分のエゴの居場所を確保する」行動をとるわけだ。
エゴのために誰かを犠牲にしない生き方なんて出来はしないのに、こと子供となると、言葉が激しくなる人が増える。

 

それはなぜか。
「人は皆、幼少期の復讐のために青年期以降を生きる」と言った人がいるらしい。
幼少期に負った苦痛は、その人の価値観の根幹を成し、生きるのに切っても切り離せないものとなってしまう。
恐らくその「幼少期の復讐」に囚われすぎると、自他の境界が曖昧になって、見も知らぬ他人の子供でさえ「生まれることを望んでいないかもしれない」とまで言い出してしまうのだろう。

 

生まれてこなければよかった。
死んでしまいたい。
何もなかったように、シュッと消えてしまいたい。
そんなふうに思ったことは何度もあるし、いまだに親を許せない部分も、たくさんある。

 

それでも子供を産んだのは、本当に「産みたかったから」でしかないのだ。
我が子という存在に、出会ってみたかった。
母親というものになってみたかった。
未来にも、政治にも、経済的にも不安はたくさんあるけれど、今からではどうにもならないことばかりだし、できることは少しずつやっている。
あとはもう精一杯愛して、育てるだけだ。親が子にできるのはそれだけだし、どんなに考えたって、100%の正解は存在しないのだから、その時その時、必死にやっていくしかない。

 

とあるVtuberが、恋愛相談への回答でこう言っていた。
「恋愛を神格化しすぎている。そもそもは種の繁栄を助けるシステムの一部みたいなものが恋愛なわけで、何か特別な存在が特別に行うものではない。たまたま近くにいたから好きになる、単純接触なんてものもある」
子を産むのはまさにその最たるものだと、私は思う。
生まれてきた命に責任を持つとか、慈しんで育てるべきとか、そういった話とは別に、「子を産む」という行為は、ごく身近なものであって、特別な存在が特別に行うものではないのだ。
恋愛をするのも、子を産むのも、育てるのも、ただただ生活の一部分でしかない。
会社員とフリーターと自営業がなかなか分かり合えないように、事情の違う人たちが、子を持つ人たちの考えを理解するのは難しいというだけだ。

 

私も実際経験するまで、完全には理解できなかった。
子供を持つのであれば、余裕のある経済力や、並々ならぬ覚悟、完成された人格を持った特別な人間でなければ、生まれた子が不幸になってしまうのではと、不安に思うこともあった。
でも、全く違った。

子は、なんであれ、親を愛する。
自分を生かし、守ってくれるはずだと、全幅の信頼を寄せてくる。
親はとにかくそれに応え、慈しみ、思いやり、一緒に生きていければ、ちゃんと育つのだ。
赤子にはそれだけのパワーが十分にある。一生懸命、一瞬一緒を生きている。
誰と暮らすのでも同じ、できないことはできる者がして、想いを寄せ合って暮らす。とにかくそうするだけだし、逆に言えば、それ以外に親は何もできない。
お金や、人格は、揃っていればより選択肢が広がるというだけで、必須ではないのだ。

私は私のエゴでこの子を生み、特別な何かを与えられるような親ではないけれど、それでも、産んだことを微塵も後悔していない。
この子が、自分は不幸だと、消えてしまいたいと感じるがくるかもしれない。
生きていれば、そんな時はあるし、全ての憂いを払ってやることなどできない。
ただその時、この子を孤独にはしない。いつでも、声や手が届くところで、支えていく。
それが「家族」なのではないかと、この頃思い始めている。